きもの検定 帯について2
こんにちは。
今日は連休も三日目、最終日ですね。
お仕事がお休みの方は、のんびりとされたでしょうか?
またお仕事の方はお疲れ様です!
宗流は三日間、何となくあっという間に過ぎていきそうです。
頑張ってお勉強してはいましたが、身についているかはどうか。
でも、何もやらないで焦るよりは、少しでもやった方が
気持ち的にはやや落ち着くかしら??そんな所です^^
さて、本日は帯のお話の二回目です。
今日は前回の予告通り、帯の歴史についてのお話をさせて頂きます。
学校の社会科に関係する、地理・歴史はめっぽう苦手な宗流…。
大人になって再び社会科に近いお勉強をするとは思いませんでしたが
本日もお勉強スタートです!!
人類が体温の保温や保護といった観点から、当初は一枚の布を身体に巻きつけていたものが
やがてガウンのように身体を覆うものへと変化した頃から、帯はその衣服を留める
といった役割が大きくなってきます。
その後も衣服を留めるため(石帯など)、また刀を挿すためといった用途
(平緒など)や、素材・形状・結び方など様々な変化を経て現在に至っています。
それらの変遷を全てという訳にはいきませんが、その中の幾つかについて
帯の歴史としてご紹介したいと思います。
弥生時代~古墳時代
この時代は巻布衣や巻頭衣といった衣服を身にまとっており、
女性は生地に頭を通す穴をあけたものを着用し、腰に細い紐状の帯を結んでいました。
古墳時代頃になると、女性の衣(きぬ)・裳(も・スカート状のもの)、男性の衣・褌(はかま)
に倭文布(しづり)の帯を締める姿が、埴輪などにあらわされています。
この倭文布(しづり)の帯とは、麻や楮、梶などで縞柄を織り出した古代織物といわれています。
またこの頃の帯の事を、古事記によると「たらし」という言葉であらわされています。
飛鳥時代~奈良時代
唐の文化が色濃く影響したこの時代は、広袖の袍に代表されるような全体的にゆったりとした
幅や長さを持つ衣服が着用されていたといわれています。
しかし、まだ推古・飛鳥時代には、帯は広い幅を持つ装飾を兼ねたものというより、
袍を紐で留めるといった様子です。
奈良時代に入ると衣服令が制定され、それまで左前であった衣服が右前に改められ、
その頃あたりから紐であった帯も少し帯らしい紕帯(そえおび)といったものが見られる
ようになります。
また庶民の服装としては前合わせの簡素な衣服に細い紐状のものを締めていたといわれています。
平安時代
平安時代初期はまだ奈良時代の唐風の衣装を踏襲しており、男性女性とも奈良時代の様相と
それほど大きな差はなかったようです。
しかし中期以降になると遣唐使が廃止され、日本独自の国風文化が興り始めます。
男性の束帯に見られる朝服が変化した衣装には、石が嵌め込まれた帯(石帯)が用いられ、
刀を提げるための平緒が見られるようになります。一方、女性の衣装は小袖に袿を何枚も重ねる
衣装が生まれます。
その中でも女官の最高の礼服・物具衣装には裙帯(くたい)という
帯状のものが見られるようになります。この裙帯は、奈良時代に生まれた紕帯(そえおび)が
変化したものといわれています。十二単とよばれる唐衣・裳をつけた装束に見られる裳の引腰も、
紕帯の変化したものといわれる説もあるようです。
また、この頃の庶民は前時代と大きな変化はなく、小袖に細い帯状の紐を締めていたようです。
鎌倉時代
この時代も、帯が現在のように衣装の中で大きな面積を占めることはありませんでした。
また貴族中心の時代から、武家が主権を担う時代へと移り変わり、それまでのゆったりとした
王朝風衣装から、比較的活動的なものへと変化したのもこの時代からです。
武家男子もそれまでの袍を始めとする衣装は重要な行事の際に着用したものの、
公家風の衣装が生まれるようになりました。それにともなうように、上流武家の婦人もそれまでの
唐衣や表着、裳を省き、小袖の上に細帯を締め、袿を数枚程度打ち掛ける姿へと変化しました。
室町時代~安土桃山時代
この頃から、上級の武家の男性女性ともに、公儀の場では正装を用いたものの、それ以外の場では
それまで下着として着用していた小袖が表にあらわれるようになりました。
また上流武家の婦人の打掛が生まれたのもこの時期です。これは小袖の上に色柄のある小袖を一枚
打ち掛けた事から、打掛と呼ばれるようになり、その打掛の下の小袖を締めるための掛下帯と
いう帯を結んだといわれています。そして夏の礼装としては、帷子を着用して肩を脱いで腰の辺りに
巻き付けた腰巻姿という装いに、附け帯または提帯という帯を使用したそうです。
庶民の衣服としては、この頃は生地を割いて両端をくけた絎帯を使用していたほか、安土桃山時代
には組紐の技術を用いた名護屋帯が使われるようになりました。この名護屋帯には平組と丸組があり
紐先に房がついていたそうです。ちなみに現在の名古屋帯とは全く別のものです。
また16世紀後半になると、現在でも馴染みの深い博多織や、西陣の織物が織られ始めました。
江戸時代
江戸時代に入ると、ようやく帯の形にも大きな変化があらわれるようになります。
武家の女性の様相はそれまでの打掛姿が継続されていましたが、外出の際など長く引いた裾を
からげて歩きやすくするためのしごきのような帯、抱え帯もこの時代に生まれました。
またそれまで貴族・武家が中心だった世から、金銭的にも裕福な商人があらわれるようになり、
江戸の文化は町人文化ともいわれるように、広い階層に様々な流行が見られるようになりました。
この時代の帯の大きな変化の一つが、帯幅の広がりです。江戸時代以前の帯幅は、約2.5~3寸ほどだった
のですが、この時代以降は4~6寸ほどに広がり、長さも長く取られるようになりました。
その理由として、歌舞伎役者の人気がありました。彼らはいわば時代のファッションリーダー
のように、きものの意匠や帯結びの流行を生み出したのです。その代表的なものが上村吉弥による
吉弥結び、水木辰之助による水木結び、瀬川菊之丞の路考結びです。加えて表裏別の生地を合わせて
仕立てる腹合わせ帯(昼夜帯)が流行したのもこの時期です。
そして、帯幅が広くなったもう一つの要因が、女性の髪形の大きさの変化です。
この時代の女性は髪を結い上げていたのですが、時代と共にその結髪が大きく張り出してきた
ために、着姿の帯とのバランスをとるために帯幅が広くなったといわれています。
その最たるものが丸帯で、この幅は現在の袋帯とあまり変わりません。
江戸初期頃から、庶民や遊女の間では帯を結ぶ位置にも大きな変化があらわれました。
寛文(1661~73)頃には、帯を前結び、横結び、後結びと三様に見られました。
またこの頃の武家の奥女中が結んだ立て矢結びは、現在の振袖にもよく使われる結び方です。
ちなみに、この時代の帯結びは現在のようなお太鼓ではなく、帯揚げや帯締めも用いられませんでした。
現在のようなお太鼓に結ぶようになったのは、江戸末期に亀戸天神のお太鼓橋が完成した際に、
深川の芸者衆がこの橋の形に似せて帯を結んだのが始まりで、これが一般的に定着したのは
明治時代になってからだという事です。
明治時代~大正時代~昭和時代
明治時代にはお太鼓結びが一般化されるようになり、帯揚げや帯締めが使われるようになりました。
また外国から織機の技術が伝わり、西陣などの帯地の産地ではそれまでにない技術の革新が
見られるようになります。
また大正時代に入ってから女性の服装改良運動の一環により、名古屋帯が生まれ
次いで昭和に入るとそれまで礼装用に用いられてきた丸帯に代わって袋帯が考案されました。
そして昭和の30年代になると袋帯と名古屋帯の利点を兼ね備えた袋名古屋帯が生まれたのです。
…はぁ。。嫌になるほど長い歴史ですね^^;
とはいえ、これは帯の一部分であって、きもの全部となると恐ろしい事になりそう。
けれど、時代はゆっくりと流れているようでも、現在私たちの過ごす平成から見ると
その変遷はとても大きなものに感じます。
今から数百年もたった時代から今の平成の時代を見る人達は、今の私と同じような
気持ちになるのでしょうかね。
何にしろ、歴史が苦手な宗流にはめまいを覚えそうなお勉強であった事だけは事実です!
宗流
by sou-ryu_mame
| 2010-09-20 13:56
| きもの検定について
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