宗流がお届けする小さな豆知識。
by sou-ryu_mame
プロフィールを見る
画像一覧

カテゴリ:きもの検定について( 52 )

きもの検定 きものの歴史 その2



前回、古墳時代までのきものの歴史をお伝えいたしました、
その続きです。
きものの歴史 その1


飛鳥・奈良時代に入ると、仏教の伝来と共に
大陸の文化が日本の文化に色濃く表れ始めました。
それは衣服においても同じです。
しかし、その異文化をすぐさま衣服に取り入れる事ができたのは
身分の高い支配階級の者、いわゆる貴族たちでした。
それまでにも、一般の庶民は麻でできた簡素な衣服だったのに対し
身分のある者は絹と、身分階級が区分されていましたが
この時代頃からの衣服には、それが更に顕著に見られる事となります。


まずは当時の大陸から。
当時の中国の支配階級の衣服は、全体がゆったりと仕立てられ
特に袖口が大きく開いているのが特徴として挙げられます。
これを深衣(しんい)、または漢服(かんぷく)と呼びました。
これに対し、一般庶民の衣服は胡服(こふく)というもので、
筒袖のついた身体に沿った衣服でした。

この中国の衣服は、身分の階級によって衣服のスタイルが違う事も
特徴なのですが、この時代の国と国との支配関係をも表しています。
この時代、中国を支配していたのは「漢」でした。
そして、庶民の衣服の名称にもなっている胡服とは、
「胡人」と呼ばれる中央アジアの遊牧民が着ていたものとされています。
要は、労働に従事する者、労働しなくてもよい者の区分が
そのまま衣服にも表れているといったところでしょうか。


この衣服の形態は、やがて日本にも影響を与えます。
日本でも、飛鳥・奈良時代になると、身分階級という意識が確立し、
貴族たちはゆったりとした長さを幅を持つ衣服を身につけていました。
これも労働階級・非労働階級の区分に起源を持つと言われています。
確かに、今も私たちが作業をする時になどはゆったりとした
ロングスカートよりは、ジーンズのように活動的な衣服を選びますものね。


そして、はっきりとした身分階級の区分は形に留まりません。
603年、聖徳太子が制定した冠位十二階では、役人の被る冠の色を
階級に分けて示したように、色での区分も生まれたのです。
この冠位十二階では紫を最上位とし、紫→青→赤→黄→白→黒が
それぞれ濃淡に分かれてその階級を表しているのです。
今でなら自分の好きな色をチョイスできるのが当たり前ですが、
この時代は好きや嫌いとは無関係に決められていたと思うと、
お洒落にうるさい奈良男子(?)などはどう感じていたのでしょうね^^


また700年代に入ると、色に限らず衣服自体の格付けもなされました。
718年に制定(719年発令)された養老律令には、
役人が朝廷内で着用する衣服にも細かく記されています。
重要な祭事や元日の際に着用した礼服(らいふく)、
毎月一度、朝会と呼ばれる政事の際の朝服(ちょうふく)、
日常の公事の際の制服(せいふく)と呼ばれるものがそれにあたります。
現代の感覚で言えば、モーニング・礼服・ビジネススーツでしょうか。
そう考えると分かりやすいかもしれませんね。

そして上の服装の制定だけでなく、全ての者の衣服に関して
決められたものが、719年に元正天皇によって発令された衣服令の中の
「右衽着装法」(うじんちゃくそうほう)で、全ての衣服は右前に衿を合わすというものでした。
前回の衽左着装法から、この時代に今と同じ着装法となった訳です。
そして、これはこの頃日本が様々な事柄を中国をならっていたため
唐の衣服が右前だった事の影響ではないかと言われています。


このように、日本においてこれほど大陸文化が色濃く影響した時代は
この飛鳥・奈良時代をおいて他にはなかなか見られないかもしれません。
また現在も正倉院の宝物にも、その異国文化を見る事ができます。
そして少し余談となりますが、正倉院に所蔵される染織品に見られ、
この時代に考案されたものに三纈(さんけち)があります。
これは染織技法の呼び名で、蝋纈(ろうけち)、夾纈(きょうけち)、纐纈(こうけち)
の三つをさします。
(↑これはまた改めて染織技法の中でおさらいします)




…まだ奈良時代ですね。。長い、長すぎる!
でも、これもあらましですから細かく学び始めると
恐ろしい事になるのでしょうね^^;
ここからまだまだ続きますが、次回は日本の衣服史の中でも
特に華やかな印象をうける平安時代のお話となります^^



きものの歴史 その3へ続く




宗流
[PR]
by sou-ryu_mame | 2010-07-17 15:48 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その1





またもや久しぶりの更新となりました^^;
前回から約三カ月…ワンシーズンに一度のペースですねぇ。。



さて。
着物にご縁のある方の中には、今年も10月に実施される
きもの検定を受験される方も多いかもしれませんね。
宗流も昨年受験に失敗した1級に再挑戦します!

と、いう訳で…しばらくの間、こちらの「宗流まめ知識」では、
前回の試験までの復習を兼ねて、受験のお勉強をしてまいりたいと思います。
今年検定を受験される方、また受験はされないまでも
着物に興味をお持ちの方、宗流と一緒にちょっとした
着物のお勉強などいかがでしょうか^^



さてさて、第一回目は何にしようかと考えていたのですが
今日はまず、きものの歴史についてお送りいたします。
できるだけ頑張って更新してまいりたいと思いますので
どうぞよろしくお付き合い下さいね♪



着物は日本古来の服装ではありますが、これは発生から現在まで
同じ形のものが続いてきたのではありません。
時代時代に、交流のあった国に影響を受けたり、
また着用するシーンや人々の暮らしぶり等にも左右され、
少しずつ変化を遂げながら、今日の着物としての衣服があります。
この「きものの歴史」では、駆け足ではありますが、
衣服としての着物の発生から、現在の形の着物に発展するまでの
あらましをお伝えできればと思っています。


弥生時代などの古代、まだ「着物」という言葉すらなかった時代には
人々は一枚の布を身体に巻きつける形で、衣服の役割を果たしてきました。
これは特に男性用のスタイルですが、身体に布を巻きつけ、
腰を紐で結えたものを巻布衣(かんぶい)と呼びます。

一方女性用のものは少し形が異なります。
女性の場合は布に頭を通す穴を開けたものを被り着し、
男性と同じく紐で結えていました。
この女性用の衣服は貫頭衣(かんとうい)と呼ばれ、
その後の着物の原型となっています。

また三世紀に中国で記された魏志倭人伝には、弥生時代の日本人について
衿と袖のない巻布衣・貫頭衣を着用していたという記録が残っています。

この巻頭衣は、一枚の布に穴を開けたものではないそうです。
ちょっと解りづらいかもしれませんが、反物状の細長い生地を
片方の肩から身体の前・後ろを覆うような長さで断ち、
その生地を二枚作ります。その二枚を身体の中央で合わせるように縫い止め、
頭が通る箇所だけを閉じずに仕立てると貫頭衣となります。
またこの時代は、脇を縫い閉じていなかったので、
紐で衣服を身体に固定し、保温性を保っていたようです。
今考えると、ちょっと寒そうです。
この時代の人達は我慢強かったんでしょうね。。
寒いの嫌いな宗流なら、冬は間違いなく冬眠します^^;



その後弥生時代後期(5~6世紀頃)になると、
四季の変化に富む、日本の気温に対応する保温性の観点から
袖なしの貫頭衣に衿が付き、袖のついた身頃の脇を
縫い合わせた形の衣服が生まれます。

しかし、それまでの衣服に生地を筒型に折った袖を縫いつけ、
脇を縫い詰める事で脱ぎ着が困難になるという問題が発生してしまいました。
そこで、それまで身体の中央で縫い止めていたものを開き、
ガウンのような形にして紐で固定する形の衣服へと発展したのです。
ですが、ただ前開きの形にするだけでは、紐で固定しても前がはだけてしまいます。
それを解消するために、前身頃の中央寄りの端に当たる部分に
右左の身頃が重なり合う部分が作られました。

解りやすく言えば、ガウンの前合わせの部分には、
左右の身頃が重なり合う部分がありますよね。
これを着物の中では衽(おくみ)と呼び、
前身頃の端から中央にかけ、衿下から裾までの細長いパーツです。
この衽が生まれた事で、被り着から羽織る形のものとなり
貫頭衣から着物の原型へと大きく変化を遂げたのです。


そして、この時代までの着物と現在の着物と最も大きな違いが
前身頃の合わせ方です。
現在私たちが着物を着る時、着物の前合わせは右前(右の身頃が下にくる)ですが
当時の着装法では左前(左身頃が下にくる)に合わせていました。
この当時の着装法は左衽着装法(さじんちゃくそうほう)と呼ばれ、
男女を問わずこの着装法が取られていました。
今ではこの左前は実際に着物を着る方法としては一般的ではありませんが、
女性用のブラウスなどボタンのついた洋服は左前ですし、
着物の着装法としては、死者を送る際の装束にも使われています。

…ですが、この右前・左前は使い方で見ると違いが明らかなのですが
解釈としては、少しややこしいかもしれません^^;
右前と言いながらも、正面前から見た場合に上にくる身頃は左ですしね。
こんな時は、前=先に合わすと覚えると楽かもしれません。
そうすると右前は右の身頃から先に身体に合わせ、
左前は左の身頃から先に身体に合わせる事になります。
もちろん、慣れてくると頭より、身体が先に動くようになりますので
過度な心配は必要ないのですが。


また弥生時代後期から古墳時代にかけては、それまでのワンピース型から
下に袴やスカート状のものを履く、ツーピース型へと変化します。
そうしたツーピース型は、ある意味では長着の着物の原型とはかけ離れ
洋装のイメージを彷彿とさせるのかもしれませんが、
その後に続く飛鳥・奈良時代、平安時代までの衣服の原型として
長い期間をかけて独自の変化を見る礎となっているのです。





きものの歴史 その2へ続く





宗流
[PR]
by sou-ryu_mame | 2010-07-17 10:16 | きもの検定について

最新の記事

再び「衿」のお話
at 2011-02-02 22:30
半襟の日
at 2011-01-20 00:22
睦月の節句
at 2011-01-16 18:21
2010 正倉院展 その3
at 2010-11-20 18:23
2010 正倉院展 その2
at 2010-11-03 17:01

お気に入りブログ

。*゜ミルクブラウン色の...

ライフログ

検索

ファン

ブログジャンル

画像一覧