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きもの検定 全国の染織品 北信越地方(新潟・長野)



こんばんは。
前回は全国の染織品シリーズの北海道~東北地方を  
お伝えいたしました。
今回は北信越地方の染織品をご紹介いたします^^




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8:新潟県  十日町絣(とおかまちかすり)
        十日町明石縮(とおかまちあかしちぢみ)
        小千谷紬(おぢやつむぎ)
        小千谷縮(おぢやちぢみ)
        越後上布(えちごじょうふ)
        塩沢紬(しおざわつむぎ)
        本塩沢(ほんしおざわ)
        五泉駒絽・羽二重(ごせんこまろ・はぶたえ)
        十日町友禅(とおかまちゆうぜん)


      


十日町絣は、新潟県十日町周辺で織られる先染めの平絹織物です。
この十日町絣の条件を満たすものは、1、先染めの平織である事。
2、経緯糸ともに絣糸を用いる事。3、絣糸を手作業で絣柄を
織り出す事。4、絣糸の染織は手くびりか擦り込みによる事。
などの厳しい基準が設けられています。


十日町明石縮は新潟県十日町で織られる絹織物です。
新潟県で明石の名前がつく由来として、兵庫県の明石市にルーツを持ち、
経糸に練糸を、緯糸に強撚糸を用いて織った平織の生地を
湯の中でもんで縮特有のしぼを生みます。
この十日町明石縮は、伝統的工芸品に指定されています。


小千谷紬は新潟県小千谷市で織られている絹織物で、伝統的工芸品に
指定されています。原料に玉糸と真綿の手紬糸を使用し、縞や絣柄、
無地紬などが織られており、この絣柄は緯糸のみで模様をあらわす
緯総絣(よこそうかすり)という技術が用いられています。


小千谷縮は新潟県小千谷市で織られている麻の縮織りで、
緯糸に強撚糸を使い、織面に「しぼ」を出した麻縮です。
国の重要無形文化財に指定されているのですが
重要無形文化財に指定されている小千谷縮は苧麻の手績み糸を
地機で織り上げるのに対し、紡績した麻のラミー糸を用いた小千谷縮は
伝統的工芸品に指定されています。


越後上布は新潟県南魚沼市で織られる夏用の平織の麻織物です。
重要無形文化財に指定されている越後上布は、苧麻の手績み糸に
手くびりで絣柄をつけ、地機で織るものに限られています。
また白地の上布を雪の上に晒してオゾンで漂白する作業は
雪晒しと呼ばれています。


塩沢紬は新潟県塩沢地方で織られる絹織物で、伝統的工芸品に指定されています。
塩沢紬は経糸に生糸か玉糸、緯糸に真綿の手紬糸を用い手織されます。
この織物は細かな十字絣や亀甲絣が特徴で、色遣いも控え目な
藍・黒・白等が基調となっており、男性用の着尺としても人気があります。


本塩沢は別名塩沢御召とも呼ばれ、経糸緯糸ともに生糸の御召糸を
使って織られる絹織物です。この本塩沢は越後縮(越後上布の前身)
のようなしぼのある麻織物の技術を絹に生かしたものだといわれており、
しぼを生かした独特のシャリ感が持ち味です。


新潟県五泉市では、滋賀県長浜・京都府丹後地方とともに白生地の
三大産地として知られ、中でも五泉の駒絽は日本一の生産量を誇っています。
またこの地域で織られる白生地(羽二重)は、緯糸を水でぬらして織る事で
密度の高い上質な生地が生まれます。


新潟県は縮や紬、絣の産地として知られていますが、十日町地方では
昭和30年代から京都の友禅染の技術を導入し、40年代に入り
十日町友禅が完成しました。この十日町で染められた友禅は、振袖のほか
留袖や訪問着など多くの着物が染められています。






9:長野県  信州紬(しんしゅうつむぎ)
        上田紬(うえだつむぎ)
        飯田紬(いいだつむぎ)
        伊那紬(いなつむぎ)
        松本紬(まつもとつむぎ)
        みさやま紬(みさやまつむぎ)
        信州友禅(しんしゅうゆうぜん)



信州紬は信州で織られる上田紬、飯田紬、伊那紬、松本紬などを総称して
そう呼びます。信州紬には3つの条件があり、1、経糸に手紡ぎ糸、生糸、
玉糸、山繭糸のいずれかを使う。2、緯糸に玉糸か真綿の紡ぎ糸を使い、
手投げ杼(ひ)で織り上げる。3、絣柄は手くくりによる。この3つを
満たしたものを信州紬と呼び、伝統的工芸品に指定されています。


上田紬は長野県上田市を中心に織られる紬で、大島・結城と並び、
三大紬とも呼ばれ、打ちこみが強くしっかりとした生地が特徴で
裏地を三度変えるほど丈夫な事から「三裏縞(みうらじま)」の
別名があります。縞や格子柄が特徴で、経糸に絹糸、緯糸に
手紡ぎ糸を用います。


飯田紬は長野県飯田市周辺で織られる紬で、飯田格子という呼び名
があるように、素朴な格子柄が特徴です。打ちこみの強いしゃきっと
した風合いが持ち味です。


伊那紬は長野県の伊那地方で織られる紬で、糸に玉糸・真綿糸・天蚕糸に
撚りをかけたものを用います。山野に自生する木々や植物から染料を
抽出し、様々な媒染剤を用いて作られた色で染められた糸で織られた
生地は、柔らかくしっとりとした風合いを持っています。


松本紬は長野県松本市および安曇野地方で織られた紬生地で、
経緯糸に手紡ぎの糸を使って織られます。また松本紬には山繭
(天蚕と呼ばれる野生の蚕)からとった糸で織られたものもあり、
これは山繭紬と呼ばれています。


みさやま紬は、長野県松本市三才山周辺で織られる紬です。
このみさやま紬は山野に自生する草木(栗や桜、山くるみなど)で染めた
糸を用い、経糸には生糸、緯糸には真綿の紬糸を使って織り上げます。


信州友禅は「信州草木染め友禅」ともいい、自然界に自生する草木を
染料にし、様々な媒染剤で発色させた染料を混ぜ合わせて色を作る友禅染です。





…本日は新潟県、長野県以外に石川県や富山県などの染織品を
ご紹介する予定でしたが、両県の染織品がことのほか多いため、
二県以外の染織品は次回のご紹介とさせていただきます。





宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-28 01:38 | きもの検定について

きもの検定 全国の染織品 北海道・東北地方





こんばんは。
前回まで「きものの歴史」をお送りいたしておりましたが、
今回からは新しいシリーズ、全国の染織品シリーズを開始いたします^^
第一回目、北は北海道~東北地方です。



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1:北海道 優佳良織(ゆうからおり)


北海道の雄大な自然をモチーフにした、色彩豊かな織物です。
この優佳良織は比較的新しい織物で、昭和30年代後半に生まれました。
素材となるのは主に羊毛で、これに絹や木綿が組み合わされます。
この織物の特徴としては色彩豊かな色を混ぜ合わせて紡がれる糸づくりです。
そしてその糸を使って織り上がった布は、素朴な雰囲気と
優しい色遣いを持ち合わせており、一見すると油絵のようにも見えるのが特色です。





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2:青森県 津軽刺子(つがるさしこ)
       南部裂織(なんぶさきおり)
       南部菱刺(なんぶひざし)



津軽刺子は、青森県弘前市を中心にした津軽一帯で作られており、
もともとは布の強度を増すための技法で、重ねた布に細かく
刺し縫いを施したもので、津軽こぎん刺しとも呼ばれます。
四つ豆こ、くつわ繋ぎ、井桁など地域ごとに大まかに3つに分類され
現在では精緻かつモダンな作品が作られています。

南部裂織は、江戸時代中期に南部盛岡藩が古くなった布の再生を
奨励した事から生まれた再生織物の技法で、経糸に麻糸や木綿糸を
緯糸に古くなった木綿を裂いたものを糸にして織り上げます。
もとは丈夫な労働着として重宝されましたが、現在では帯などの
美しい織物として確立されています。

南部菱刺は、こぎん刺しと同じく布に糸で模様を刺したものですが、
津軽のものと異なる点に、津軽刺子は柄による多様性を表現していますが
この南部菱刺は、色糸による多様性があります。また模様は全て菱型の
単位模様で、この大小の菱を組み合わせる事で大きな集合模様
(梅の花・そろばん玉・矢羽根など)を表しています。





3:秋田県 天鷺ぜんまい紬(あまさぎぜんまいつむぎ)
       秋田八丈(あきたはちじょう)
       秋田畝織(あきたうねおり)




秋田県岩城町で織られる、ぜんまいの綿毛を使った織物です。
食用にもされるぜんまいの綿毛を紡ぎ、草木染めして糸が作られるのですが
この「天鷺」と呼ばれるのは、ぜんまいの糸に鳥の羽根がまぜられているためで
緯糸にこうした糸が織り込まれる事で、白くふんわりとした独特の温もりをもつ
織物になるのです。


秋田八丈は「黄八丈」と同じく黄や鳶色、黒地に縞や格子の柄を織り出した絹織物ですが
秋田八丈は浜茄子の根の色素から鳶色を染めており、それによって独特の赤茶色が
得られています。


秋田畝織は横に畝の模様が織り出された絹織物で、美しい光沢とシャリ感が特徴です。
しかし、江戸時代後期生まれたこの織物は大正時代に一度途絶え、戦後再び復元
されたものの、現在は操業を停止しています。





4:岩手県 南部紫根染(なんぶしこんぞめ)
       南部茜染(なんぶあかねぞめ)




岩手県南部地方で古くから染められてきた南部紫根染は、紫草という植物の
根から抽出した染料で染める染めものです。
この紫草は「万葉集」や「古今和歌集」にもその名が登場するほど
古くから染料として使われてきたものです。


南部茜染は茜草の根から抽出した染料で染めます。
また紫根染、茜染が「南部絞り」という別称で呼ばれるように、その多くは
少量の無地染めを除いて、板締めや縫い締めなどによる絞り染めが施されます。






5:山形県 置賜紬(おいたまつむぎ)
       米沢紬(よねざわつむぎ)
       長井紬(ながいつむぎ)
       米琉(よねりゅう)
       白鷹御召(しろたかおめし)
       科布(しなぬの)
       紅花染(べにばなぞめ)




置賜紬は、山形県米沢市、長井市、白鷹町を中心に生産される織物の総称です。
江戸中期、米沢藩主の上杉鷹山が養蚕・織物を奨励した事により、
この地域は一大織物産地となりました。


米沢紬は紅花の産地でも有名な米沢周辺で織られた紬で、特に紅花紬は有名です。
またそれ以外にも藍や刈安などの植物染による素朴な味わいの織物があります。


長井紬は緯絣、経緯絣で織られた絣模様が多く見られる織物です。
また経糸に生糸、緯糸には真綿糸や玉糸が用いられるのも特徴です。


米琉は、その品質が沖縄の琉球絣に似ている事から、「米沢琉球」が略され
米琉と呼ばれるようになった絹織物です。絣柄が特徴で、井桁や鳥の模様を
配したものには、その名の通り琉球織物の影響が色濃く見られます。


白鷹御召は、山形県白鷹町で織られている板締めによる経緯絣の絹織物です。
また板締めによる絣括りと共に、染め船という台に乗せ熱した染料をそそぐ
「ぶっかけ染め」も特徴の一つです。織り上がった生地の表面には強撚糸による
鬼しぼと呼ばれる凹凸ができ、独特のシャリ感を持っています。


科布は科の木や菩提樹から取った樹皮を繊維にして織った布をいいます。
多くは帯等に織り上げられますが、樹皮の繊維糸は独特の手触りと味わいを
持ち、当初は硬く感じますが使い続けるうちに柔らかく馴染むようになります。


紅花染めは紅染めとも呼ばれ、茜染めに次ぐ古くからの染織技法です。
この紅花染めは紅花を用いて行われますが、この花からは花びらに含まれる
黄色の色素から染められる黄染めと、紅花の花びらから黄の色素を取り除き
残った赤の色素を酸化発行して染められる紅染めがあります。






6:宮城県 精好仙台平(せいごうせんだいひら)
       栗駒正藍染(くりこましょうあいぞめ)




精好仙台平は、宮城県仙台地方で織られる男性用の高級袴地です。
仙台平の中でも経糸を二本引きそろえて、緯糸に撚りのない生糸を
濡らして強く織り込んだものを精好仙台平と呼んでいます。


栗駒正藍染は宮城県の栗駒町に伝わる古くからの染織法です。
この正藍染めは奈良時代に行われていたという技法で、藍を大甕に入れ
自然発酵させて染めるのですが、この方法は人工的に甕を加温して染める
方法と異なり、夏の間の二か月しか染める事ができません。






7:福島県 会津木綿(あいづもめん)
       会津からむし織(あいづからむしおり)

 


会津木綿は福島県会津若松市で江戸時代から織られている木綿織物です。
素朴な縞柄に特徴があり、本来は藍染めのものが定番でしたが、現在では
化学染料による様々な色の縞柄が織られています。


会津からむし織は、会津上布ともよばれる麻織物です。
からむし織の原料となる苧麻はイラクサ科の宿根性多年草木の白葉種で
「からむし」「しなあさ」とも呼ばれます。この白葉種による苧麻の糸は
強靭かつ光沢に富んでおり、ここから織られたからむし織は薄くて軽い
最上の麻織物とされています。




次回は信越・北陸地方の染織品をご紹介いたします^^




宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-27 02:24 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その7




きものの世界だけに限らず、日本文化において
広い階層の人々に様々な日本文化が浸透した江戸時代。
鎖国の影響で独自の国文化様式が発展し、
武家だけにとどまらず、商人・町人の中からも
それらは芸術、文化として後世に継承する動きが見られ
そして今も日本の伝統文化として培われ続けています。

本日はそんな江戸時代後、明治・大正~における
比較的近代のお話に入ります。



きものの歴史 その6



日本の衣服史の中で、今現在のきものの形にほぼ近くなった江戸時代。
今も私たちの生活の中にある振袖や羽織など、この時代に一般的に
なったものも数多くあります。

しかし、江戸幕府が終焉を迎えたのを機に廃止されたものもありました。
それが前回お伝えした武士の裃(かみしも)です。
それまで武家の礼装として続いていたのですが、
明治時代になり武家社会の終わりと共に廃止されたのです。
その裃に変わり、一般の礼装着となったのが黒紋付の羽織袴です。
いまも結婚式などの晴れの場で見る事ができるお馴染みのものですね。
そして女性の礼装着としては留袖が第一礼装となりました。
(未婚女性の第一礼装は振袖です)
これも現代の礼装と同じです。


また、明治時代は近代日本における産業育成という名目で
様々な分野においての機械化の動きが活発化していきました。
それはきものの分野においても画期的な成果をおさめます。

それまでの機織り(織機)といえば、人の手によるものが主流でしたが、
明治時代に入りヨーロッパからジャカード機が導入され、
紋織物などの技術、生産性ともに飛躍的に活性化しました。
そのため絹織物の価格も安定し、
供給の面でもそれ以前の綿や麻を使用していた庶民階層にも
広く行き渡るようになったのです。

そして供給面が安定した事により、それまで天然染料に頼っていた染色にも
変化が見られるようになります。
化学染料の使用です。それにより以前は手間のかかる天然の染材料を使用した
ものから、安価かつ大量に同等製品を量産する事に成功したのです。
この成果は一方で、伝統的な手法が廃れゆく一因となり得たのですが
生産や品質の安定化としては大きな成果を果たした事でしょうね。
しかしその一方で、明治後半から大正にかけて
御召や銘仙、絣・紬といった日本の伝統産業といわれるような染織品に
近代的な感覚を加わったものが発展して行きます。
いま私たちがレトロモダンとして馴染んでいる銘仙の柄などは
この時代に人気を博したもので、確かにそれまでのものとは
少し雰囲気が違いますね。いまでこそレトロ、なんて言ってますけれど
きっと当時の女性たちにとっては大層モダンだったのでは、と思います。



また明治・大正時代は国として大きな変化を見ただけでなく
一般庶民の生活様式にも変化を与えました。
その一つが女性の学業参加です。
それまでの子女はいわゆる学校での学業に専念する機会が少なかったのですが
この時代になると女子のための女学校も多く設立されるようになりました。
その女学生たちのための制服として流行したものが袴(はかま)でした。
これはいまでも大学などの卒業式でよく見られますよね。
宗流も学校の卒業式に着用しました^^


そして、いわゆる「きもの」にも変化が見られるようになります。
その代表として挙げられるのがなごや帯です。
これは大正時代に入る頃、当時の名古屋女学校の創設者、塚原春子さんが
服装改良運動の一環として、前帯を半幅に仕立てた締めやすい帯を考案したものです。
これは今もお洒落着や一部略礼装の帯として使われ続けています。
また今で言う準礼装の訪問着も、大正時代に確立されます。
明治時代までは小紋に紋を一つつけたものを、訪問着として着用していましたが
現在のような柄つけで、袋帯を締めて着用するようになったのは
大正時代になってからだと言われています。



しかし、生活の欧米式が顕著になる事で
徐々に生活の中の衣服は、和装から洋装へと変化していきました。
また女性の社会進出が盛んになる事で、
ますますそれに拍車がかかったのでしょうね。
和装はそれまで日常の衣服として普通のものであったものが
年代を重ねるにしたがって、特別な日のものといったものとして
変化していったのです。




さて。
ざっと駆け足で近世までの和装の変遷を見てまいりましたが。
きものの歴史としては今回が最終のお話となります。
長かったですね^^; 歴史が苦手な宗流としては、
毎回毎回がちょっとした苦行でしたね~。

しかし、苦手分野はこれだけにとどまりません!
次回からは、日本全国の染織品のご紹介に入ります。
…歴史だけに限らず、地理も苦手な宗流。
毎年の事ですが、日本全国の県の配置すら今も定かではない状態!
どうぞ温かい目で次回からもお付き合い下さいますよう
よろしくお願いいたします^^




宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-25 19:26 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その6




鎌倉~安土桃山時代を経て、きものの歴史も
いよいよ江戸時代まで進んでまいりました。
250年以上続くこの時代は、衣服史の中でも
様々なものが生まれ、そして廃れ、今日のきものという文化への
直接的な発展が見られます。

またこの時代は文化や文様、帯・織物にも多くのものが
流行を見るのですが、今回はざっと流れをご覧いただき、
それぞれのものについてはまた改めて別のお話の中で
詳しく見てまいりたいと思います^^



←きものの歴史 その5



安土桃山時代で衣服の中心的な役割を担うようになった小袖は、
江戸時代に入ると、さらにその意匠を凝らすようになりました。
しかし、それは実質的には武家の世界のお話ではありません。
日本では古くから衣服による身分や社会的地位の区分があり、
その区分は江戸時代を迎えても、身分制度を維持するという
観点から、武家の世界ではそれほど大きな変遷を見る事はありませんでした。


これに対して、いわゆる「奥」の世界に身を置く武家女性たちは
比較的自由に変化を楽しむ事ができたようです。
江戸時代初期は絞り染めや刺繍などが中心となった小袖は
海外貿易による染物(更紗など)や、小袖そのものに絵を描くように
柄行きを描いてゆく友禅染の技法が確立され、小袖の世界は
更に彩りを増してゆきました。
素材に関しても、唐織や金襴など織の技術も発達し、
現在存在する染めや織の多くがこの時代に見られるようになります。

また、この時代の大奥など身分の高い女性の衣装をTVなどで目にすると、
豪華な打ち掛けを羽織った様子を見る事があります。
この表衣の上に外衣を羽織り、裾を長く引く様式は
この時代になって定着したものです。

それと同時に、高い身分の武家女性、裕福な町人女性が贅を凝らした
小袖の衣装に相応しく帯の幅も広くなり、丸帯という帯が生まれ
それに伴って模様付けも袖や裾中心にバリエーションが見られるようになりました。
ちなみにこの時代の豪華な小袖は、いまも国立博物館などで
目にする事ができるのですが、これらの美意識の高さや
意匠の表現力の豊かさには驚かされます。

しかし、そうしたお洒落を楽しんでいたのは
何も裕福な生活を送っていた女性たちばかりではありません。
江戸時代は、町人を始めとした文化が花開いた時代でもあります。
以前は簡素な小袖を纏っていた一般の女性たちも
時代と共に様々な流行を追いかけるようになるのです。
この時代のお洒落のファッションリーダーとなったのは、
歌舞伎役者や遊女たちでした。
女形の彼ら、そして粋を売りにする彼女たちは、
帯の結び方や文様などの流行を生んでゆくのです。



一方、この時代の武家男性の特筆すべき衣装に、
肩衣と袴からなる裃(かみしも)が登場します。
これは江戸時代以前の礼装である素襖(すおう)
の袖を切り取った形のもので、江戸時代はこれを正装として用いられました。
また今現在もその形が残されるものに、羽織があります。
この羽織が生まれたのも江戸時代で、もともとの起源は
安土桃山時代の武家が野外や馬上で用いた胴服なのですが、
この羽織はやがて下級武士や町人が裃の代わりに礼装用として
袴と共に用いられるようになりました。


ざっと駆け足で江戸時代の衣装の様相に触れましたが
小袖が現在のきものの形とあまり相違なくなったものの、
当初から今のような着装方法であったという訳でもありませんでした。
例えば、いま私たちがきものを着用する際に使用する和装小物、
帯揚げ・帯締めが使われるようになったのは
江戸時代の後期と言われています。



また余談となりますが、きものを着用される女性でしたらよくご存じの
「おはしょり」もこの時代にはまだなく、
実際にその方法が取られるようになったのは明治時代でした。
おはしょりは着物の裾を長く引き摺らないよう、
腰のあたりできものをたくしあげて着装するための方法ですが
江戸中期、打ち掛けを着用していた女性たちは室内では裾を長く引いていたため
外出の際には歩行しやすいよう裾をからげて、抱え帯(かかえおび)という
帯を締めていたのですが、現在この時代の様子を映し出したTV等では
あまり見られません。

時代を忠実に描いたものでも、やはりきもののイメージや
見た目の問題でそうなってしまうのでしょうかね。
ちょっとした事なのですが、そんな風な視点から時代劇を見てみると
意外な発見などができ、違う面白さを味わえたりするものです^^



→きものの歴史 その7へ続く






宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-22 23:32 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その5




前回までは平安時代の衣装を簡単にお伝えしました。
今回からはそれまでの貴族中心の世から、武家の力が増してゆく
鎌倉から安土桃山時代のお話に入ります。




きものの歴史 その4



…実は宗流、衣服史の中でこの時代が何より苦手です^^;
(と、いうより歴史は全般的に苦手です!)
ですから、少しお話が解りづらい箇所もあるかと思いますが
どうぞひろーい心でご覧頂けますと有難く思います!



まずは男性の衣装から見てみましょう。
貴族が栄華を誇った時代は過ぎ去り、やがて時代は武家中心の
世へと移り変わってゆきました。
また衣服の中にもその移り変わりは顕著に表れており、
特に男性のものは、それまでの国風文化の強い優雅なスタイルから、
機能性と権力の誇示を兼ね備えた衣服が生まれました。

武士たちはそれまでの公家の堅苦しい衣服から、
次第に行動的な衣服を公的なものへと変えていきます。
それが直垂(ひたたれ)、素襖(すおう)と呼ばれるものです。
これらが公家風の衣装と大きく異なる点に、首周りの形が挙げられます。
公家の衣装は、詰襟風の盤領(あげくび)だったのに対し
直垂や素襖は垂盤(たりくび)と呼ばれる、
着物の前合わせのような形をしていました。

そして、着装の見た目にも変化が見られます。
それまでの袍(ほう)を着用する着装では、袴の上に上衣を出していたものが
直垂は裾を袴の中に入れて着用します。
この着装方法も、貴族社会の雅やかなものから、
政治の中心となり、また時には戦も辞さないという
武家社会の在り方を反映しているとも言えるそうです。

「婆裟羅(ばさら)」と称されるものも、この武家社会から生まれました。
これは武士たちが胴服(元来は乗馬の際などに埃よけとして用いられる)や
小袖に吉祥文様などの豪華な模様を施したもので、
彼らはそれを競い合うように身につけるようになりました。



またそれまでの時代にはあまり重きが置かれなかったものが
表にあらわれるようになります。それが小袖(こそで)の存在です。
貴族の装束の下着であったり、庶民の日常着、武家の平常着だった小袖は
この頃から様々な変化の様相を見せるのです。
小袖は、この時代以前の衣装としては最下位の扱いを受けてきましたが
やがてその表面に摺り絵や絞り染めなど、
多様な装飾が施されるようになりました。
庶民の衣服としては、それまでの麻の簡素なものとあまり変化はありませんが
武家社会の小袖には素材に絹が用いられ、文様にも贅が凝らされました。


一方、女性たちの衣装にも変化が見られました。
当時の武家女性たちも、それ以前と同じく重ね着をしていたのですが、
平安時代の袿(うちぎ)のように袖の広く長いものではありません。
袖丈や袖口を縫いとめた、小袖を数枚重ねてその上
小袖と同じ形の打掛(うちかけ)を羽織って略式の礼装としていました。
これは現在でも婚礼衣装として目にする機会が多いかもしれませんね。


また安土桃山時代頃になると、外出時女性たちは小袖を着用し
頭の上から小袖の単衣を頭に被るようになります。
TVのドラマなどでも時折このような様子を目にする事がありますが
これは被衣(かつぎ)と呼ばれています。


このように、鎌倉~安土桃山時代にかけては
それまで目立つ事のなかった小袖が、男女ともに衣服の中心となってきました。
そしてこの小袖は、桃山時代以降もきものという衣服の中心的役割を担い、
その後も発展を遂げていくのです。




きものの歴史 その6へ続く





宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-21 23:22 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その4




前回は平安時代の貴族の装束のあらましについてお話しましたが
今回は色や重ね着についてのお話をお伝えいたします。


きものの歴史 その3


まずは男性の束帯(そくたい)についてのお話です。
束帯は平安時代以降、天皇以下公家の正装をいいます。
文字だけでお伝えするのはとても難しいのですが、
雰囲気で言えば、映画の陰陽師や源氏物語などに登場する
男性の衣装と言えばいいでしょうか。
(↑スミマセン、表現力がありません)

ざっくり言えば、下着となる袖口の小さな着物(小袖)の上に、
袴を二枚重ねて履き(大口袴と表袴)、着物を重ね着し
(単(ひとえ)・袙(あこめ)・下襲(したがさね)・半臂(はんぴ)・袍(ほう))
それを石のついたベルト状のもの(石帯)で結んで着るというものです。
…ですが、それを説明するのは大変なので、→wikipediaのこちらでお許し下さい^^;


さて。いよいよ本日の本題の十二単の色・重ね着についてのお話です。
日本には四季折々の花が咲き、自然の中にもそれぞれの
四季の彩りを見る事ができます。
春の桜、秋の紅葉、冬の雪景色、それらに現代の私たちが感動を覚えるように
古代の人々もまたそれに心を惹かれ、その色彩を衣服にうまく取り入れていました。
その色の取り合わせが、「襲色目(かさねのいろめ)」です。

私たちが春といえば桜の薄桃色、若葉の黄緑色、菜の花の黄色
という色たちをイメージするのと同じで、当時の人々もまた
色によって季節感を演出するという事をとても大切にしていました。
襲色目はそれぞれその季節を表す色を組み合わせたものですが
構成する古代色の一つ一つに名前があるだけでなく、色の組み合わせ方にも
季節を表す名前をつけていたのです。

例えば、初夏の水辺に美しく咲く菖蒲の色を表す色は
青・薄青・白・紅梅・淡紅梅・白といった色を組み合わせます。
組み合わせの中の青や紅梅といった名称は、それぞれの色を指し、
これは青や白の菖蒲の花、紅梅色で菖蒲の根を表しているそうです。
この数色の組み合わせ=襲色目を「菖蒲」と呼んでいるのです。

そして、こうした組み合わせは幾通りも存在しており、
それぞれが四季の風景や心象を表す名称を持っています。


ところで、なぜこうした色の組み合わせが必要になってくるかと言いますと、
十二単の様子を思い浮かべてみて下さい。
女性が数枚の着物を、幾重にも重ね着していますよね。
これは肌着となる小袖の上に、袴を履き、単(ひとえ)を重ね、
その上に袿(うちぎ)を数枚重ね着し、表着(おもてぎ)を重ね、
唐衣(からぎぬ)、裳(も)をつけるという構造なのですが
(季節や時代によって袿を重ねる枚数は変わります)
この時代の貴族の女性たちの着物は、袖の長さが上に重なるほど短く、
袖口の部分に下に重ねて着た着物の袖口が見えるようになっています。
彼女たちはそこに四季を表わす色彩を重ね、季節感を演出していたのです。

またこの組み合わせは着物を重ねた時だけに限らず、
着物の表地と裏地の色の取り合わせにも使われていました。


目に見えて一つの色で季節を表すことは比較的容易ですが、
こうした色の重なり具合で四季を表すことは、
なかなか容易ではありません。
自然に対してのイメージを捉える感受性や、それを言葉にする表現力、
そうしたものに当時の人々はとても繊細な目や心を持っていたのでしょうね。
奥ゆかしいというか、そうしたセンスの良さをあからさまにしない、
密やかな美といった雰囲気が感じられるような気がします。


ちなみに、余談となりますがこの時代の皇族・貴族の装束の着装を
衣紋道(えもんどう)といい、源有仁という人物が確立したと言われてます。
その中での流派に、高倉流と山科流という二つの流派があり、
私たちが何かの折に映像や写真で目にする装束は
そのどちらかの流派によるものです。
そして驚く事に、十二単を着装する際は、紐一本で着付けているとの事。
季節や重ねる着物の枚数により異なるそうですが、
約7~8kg以上、時には10kgを超え15kg近くなる重く豪華な衣装を
紐一本で支えているなんてすごいものです^^;




きものの歴史 その5へ続く




宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-19 17:48 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その3



前回は、飛鳥・奈良時代までのきものの歴史をお伝えいたしました、
今回はその続き、平安時代のお話です。

きものの歴史 その2


日本の地において、大陸の文化が大きく影響を与えた奈良時代、
その後平安時代に入っても、しばらくの間は前時代の流れが
続いていたのですが、やがて大きな変化を見るようになります。
それは、日本の国風文化の発達です。

平安時代中期まで、日本は中国の文化に多大な影響を受けていたのですが
菅原道真によって遣唐使が廃止されたのを契機に、
大陸式の文化に変わり、日本独自の文化が花開いたのです。
またそれは衣服に関しても同じ事がうかがえます。



平安時代といって、まず最初にイメージで浮かぶのは
貴族の女性が身に纏う、十二単を始めとする女房装束
仰る方も多くいらっしゃることでしょう。
この平安時代は日本の衣服史の中でも、華やかさと
色彩の豊富さでは比類なきものといえるかもしれません。
美しい姫君が纏う十二単は、彩り豊かな色彩イメージを
今も私たちに与えてくれます。

また奈良時代の大陸文化は日本の衣服史に大きな影響を与えましたが
次世代の国風文化にも、引き続き受け継がれたものがあります。
それは、労働に従事しない身分の高いものは、
活動的でない衣服を着用する事がよしとされる概念でした。
そのため、日本独自の衣装である貴族女性の十二単や、
男性の束帯にも、ゆったりとした身幅や丈のものが採用されたのです。
特に女性の十二単などはその最たるものなのでしょうね。
何しろ、あれほど裾を長く引いた衣装で活動的になんて
とても動けそうにありませんもの^^;



この時代の衣装(装束)をざっと見てみますと…
まず男性の装束は、礼服(天皇の即位式等に用いられる)
文官束帯(天皇・文官・位の高い武官の装束)、
武官束帯(四位以下の武官の装束)、衣冠(男性の略礼装)
直衣(のうし)(天皇、皇太子、親王、公家の普段着)
狩衣(かりぎぬ)(公家の普段着)
水干(すいかん)(下級官吏・地方武士・庶民の平服であったが
後に武家の礼服となる)

女性の場合は
礼服(天皇の即位式に出席する女官の衣装)
十二単(位の高い女性の着用する衣装)、
(うちき)(十二単ほど格式張らず、平服より改まった衣装)


…といったものが挙げられます。
これらは主に上流階級や役人といった人々のものですが、
何だか文字から見るだけでも、堅苦しい気がします。
まぁ気軽・身軽でない事がよしとされるのですから、仕方ありません。。
そう思えば、女性たちの衣装がこうした活動的でないものだからこそ
内なる感覚が鋭敏となり、源氏物語や枕草子などの、
女流作家による作品が多く生まれたのかもしれませんね。



そして、この上流階級の衣装が表す日本的文化の真骨頂として
色や重ね着の妙があります。
ですが、これはまた少し長いお話となりますので、
こちらは次のその4にて触れてみたいと思います。
それでは、今日はこの辺りで…。



きものの歴史 その4へ続く




宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-19 10:08 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その2



前回、古墳時代までのきものの歴史をお伝えいたしました、
その続きです。
きものの歴史 その1


飛鳥・奈良時代に入ると、仏教の伝来と共に
大陸の文化が日本の文化に色濃く表れ始めました。
それは衣服においても同じです。
しかし、その異文化をすぐさま衣服に取り入れる事ができたのは
身分の高い支配階級の者、いわゆる貴族たちでした。
それまでにも、一般の庶民は麻でできた簡素な衣服だったのに対し
身分のある者は絹と、身分階級が区分されていましたが
この時代頃からの衣服には、それが更に顕著に見られる事となります。


まずは当時の大陸から。
当時の中国の支配階級の衣服は、全体がゆったりと仕立てられ
特に袖口が大きく開いているのが特徴として挙げられます。
これを深衣(しんい)、または漢服(かんぷく)と呼びました。
これに対し、一般庶民の衣服は胡服(こふく)というもので、
筒袖のついた身体に沿った衣服でした。

この中国の衣服は、身分の階級によって衣服のスタイルが違う事も
特徴なのですが、この時代の国と国との支配関係をも表しています。
この時代、中国を支配していたのは「漢」でした。
そして、庶民の衣服の名称にもなっている胡服とは、
「胡人」と呼ばれる中央アジアの遊牧民が着ていたものとされています。
要は、労働に従事する者、労働しなくてもよい者の区分が
そのまま衣服にも表れているといったところでしょうか。


この衣服の形態は、やがて日本にも影響を与えます。
日本でも、飛鳥・奈良時代になると、身分階級という意識が確立し、
貴族たちはゆったりとした長さを幅を持つ衣服を身につけていました。
これも労働階級・非労働階級の区分に起源を持つと言われています。
確かに、今も私たちが作業をする時になどはゆったりとした
ロングスカートよりは、ジーンズのように活動的な衣服を選びますものね。


そして、はっきりとした身分階級の区分は形に留まりません。
603年、聖徳太子が制定した冠位十二階では、役人の被る冠の色を
階級に分けて示したように、色での区分も生まれたのです。
この冠位十二階では紫を最上位とし、紫→青→赤→黄→白→黒が
それぞれ濃淡に分かれてその階級を表しているのです。
今でなら自分の好きな色をチョイスできるのが当たり前ですが、
この時代は好きや嫌いとは無関係に決められていたと思うと、
お洒落にうるさい奈良男子(?)などはどう感じていたのでしょうね^^


また700年代に入ると、色に限らず衣服自体の格付けもなされました。
718年に制定(719年発令)された養老律令には、
役人が朝廷内で着用する衣服にも細かく記されています。
重要な祭事や元日の際に着用した礼服(らいふく)、
毎月一度、朝会と呼ばれる政事の際の朝服(ちょうふく)、
日常の公事の際の制服(せいふく)と呼ばれるものがそれにあたります。
現代の感覚で言えば、モーニング・礼服・ビジネススーツでしょうか。
そう考えると分かりやすいかもしれませんね。

そして上の服装の制定だけでなく、全ての者の衣服に関して
決められたものが、719年に元正天皇によって発令された衣服令の中の
「右衽着装法」(うじんちゃくそうほう)で、全ての衣服は右前に衿を合わすというものでした。
前回の衽左着装法から、この時代に今と同じ着装法となった訳です。
そして、これはこの頃日本が様々な事柄を中国をならっていたため
唐の衣服が右前だった事の影響ではないかと言われています。


このように、日本においてこれほど大陸文化が色濃く影響した時代は
この飛鳥・奈良時代をおいて他にはなかなか見られないかもしれません。
また現在も正倉院の宝物にも、その異国文化を見る事ができます。
そして少し余談となりますが、正倉院に所蔵される染織品に見られ、
この時代に考案されたものに三纈(さんけち)があります。
これは染織技法の呼び名で、蝋纈(ろうけち)、夾纈(きょうけち)、纐纈(こうけち)
の三つをさします。
(↑これはまた改めて染織技法の中でおさらいします)




…まだ奈良時代ですね。。長い、長すぎる!
でも、これもあらましですから細かく学び始めると
恐ろしい事になるのでしょうね^^;
ここからまだまだ続きますが、次回は日本の衣服史の中でも
特に華やかな印象をうける平安時代のお話となります^^



きものの歴史 その3へ続く




宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-17 15:48 | きもの検定について

きもの検定 きものの歴史 その1





またもや久しぶりの更新となりました^^;
前回から約三カ月…ワンシーズンに一度のペースですねぇ。。



さて。
着物にご縁のある方の中には、今年も10月に実施される
きもの検定を受験される方も多いかもしれませんね。
宗流も昨年受験に失敗した1級に再挑戦します!

と、いう訳で…しばらくの間、こちらの「宗流まめ知識」では、
前回の試験までの復習を兼ねて、受験のお勉強をしてまいりたいと思います。
今年検定を受験される方、また受験はされないまでも
着物に興味をお持ちの方、宗流と一緒にちょっとした
着物のお勉強などいかがでしょうか^^



さてさて、第一回目は何にしようかと考えていたのですが
今日はまず、きものの歴史についてお送りいたします。
できるだけ頑張って更新してまいりたいと思いますので
どうぞよろしくお付き合い下さいね♪



着物は日本古来の服装ではありますが、これは発生から現在まで
同じ形のものが続いてきたのではありません。
時代時代に、交流のあった国に影響を受けたり、
また着用するシーンや人々の暮らしぶり等にも左右され、
少しずつ変化を遂げながら、今日の着物としての衣服があります。
この「きものの歴史」では、駆け足ではありますが、
衣服としての着物の発生から、現在の形の着物に発展するまでの
あらましをお伝えできればと思っています。


弥生時代などの古代、まだ「着物」という言葉すらなかった時代には
人々は一枚の布を身体に巻きつける形で、衣服の役割を果たしてきました。
これは特に男性用のスタイルですが、身体に布を巻きつけ、
腰を紐で結えたものを巻布衣(かんぶい)と呼びます。

一方女性用のものは少し形が異なります。
女性の場合は布に頭を通す穴を開けたものを被り着し、
男性と同じく紐で結えていました。
この女性用の衣服は貫頭衣(かんとうい)と呼ばれ、
その後の着物の原型となっています。

また三世紀に中国で記された魏志倭人伝には、弥生時代の日本人について
衿と袖のない巻布衣・貫頭衣を着用していたという記録が残っています。

この巻頭衣は、一枚の布に穴を開けたものではないそうです。
ちょっと解りづらいかもしれませんが、反物状の細長い生地を
片方の肩から身体の前・後ろを覆うような長さで断ち、
その生地を二枚作ります。その二枚を身体の中央で合わせるように縫い止め、
頭が通る箇所だけを閉じずに仕立てると貫頭衣となります。
またこの時代は、脇を縫い閉じていなかったので、
紐で衣服を身体に固定し、保温性を保っていたようです。
今考えると、ちょっと寒そうです。
この時代の人達は我慢強かったんでしょうね。。
寒いの嫌いな宗流なら、冬は間違いなく冬眠します^^;



その後弥生時代後期(5~6世紀頃)になると、
四季の変化に富む、日本の気温に対応する保温性の観点から
袖なしの貫頭衣に衿が付き、袖のついた身頃の脇を
縫い合わせた形の衣服が生まれます。

しかし、それまでの衣服に生地を筒型に折った袖を縫いつけ、
脇を縫い詰める事で脱ぎ着が困難になるという問題が発生してしまいました。
そこで、それまで身体の中央で縫い止めていたものを開き、
ガウンのような形にして紐で固定する形の衣服へと発展したのです。
ですが、ただ前開きの形にするだけでは、紐で固定しても前がはだけてしまいます。
それを解消するために、前身頃の中央寄りの端に当たる部分に
右左の身頃が重なり合う部分が作られました。

解りやすく言えば、ガウンの前合わせの部分には、
左右の身頃が重なり合う部分がありますよね。
これを着物の中では衽(おくみ)と呼び、
前身頃の端から中央にかけ、衿下から裾までの細長いパーツです。
この衽が生まれた事で、被り着から羽織る形のものとなり
貫頭衣から着物の原型へと大きく変化を遂げたのです。


そして、この時代までの着物と現在の着物と最も大きな違いが
前身頃の合わせ方です。
現在私たちが着物を着る時、着物の前合わせは右前(右の身頃が下にくる)ですが
当時の着装法では左前(左身頃が下にくる)に合わせていました。
この当時の着装法は左衽着装法(さじんちゃくそうほう)と呼ばれ、
男女を問わずこの着装法が取られていました。
今ではこの左前は実際に着物を着る方法としては一般的ではありませんが、
女性用のブラウスなどボタンのついた洋服は左前ですし、
着物の着装法としては、死者を送る際の装束にも使われています。

…ですが、この右前・左前は使い方で見ると違いが明らかなのですが
解釈としては、少しややこしいかもしれません^^;
右前と言いながらも、正面前から見た場合に上にくる身頃は左ですしね。
こんな時は、前=先に合わすと覚えると楽かもしれません。
そうすると右前は右の身頃から先に身体に合わせ、
左前は左の身頃から先に身体に合わせる事になります。
もちろん、慣れてくると頭より、身体が先に動くようになりますので
過度な心配は必要ないのですが。


また弥生時代後期から古墳時代にかけては、それまでのワンピース型から
下に袴やスカート状のものを履く、ツーピース型へと変化します。
そうしたツーピース型は、ある意味では長着の着物の原型とはかけ離れ
洋装のイメージを彷彿とさせるのかもしれませんが、
その後に続く飛鳥・奈良時代、平安時代までの衣服の原型として
長い期間をかけて独自の変化を見る礎となっているのです。





きものの歴史 その2へ続く





宗流
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by sou-ryu_mame | 2010-07-17 10:16 | きもの検定について

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